イメージ・想像力

「イメージ力」、つまり想像力は演技者の力量を決定づける最大のポイントになるものです。

前出の「リラックス」「肉体のバランス」「台詞」といったものは、極言すれば俳優のイメージを具現化する上での道具に過ぎないといっても過言ではありません。また、演技者の最大の資質とはこのイメージ力のある無しといっても良いでしょう。

このイメージ力を養う上で最も重要になってくるのは「感じる」という感覚です。「イメージ力を養うには考えることが一番」という考え方がありますが、これは半分正解で半分間違いです。

「まず最初に感じ、そして考えていく。そして、出来るだけ多くの事を感じ取れるようにしていく」という事が重要なのです。考えてみてください。何も感じていないのに、無理矢理考え出した結論なんて強引な屁理屈以外の何物でもありません。料理を食べて、味について熟考した末に「美味しい」とか「不味い」といった結論を出す人など何処にもいないでしょう。

演技もこれと全く同じことです。
作品や感情とは感じるものであり、感じる事への補足として考えるという行為が必要になるのです。考えるという行為は重要ではありますが、無駄に考えるという行為を行えば百害あって一利無しです。

ここで、感じるという行為が創造した名演技について一つの例を上げておきます。

デビット・リーン監督の大作「ドクトル・ジバゴ」の中で主人公ジバゴを演じたのは名優オマー・シャリフ。彼はこの作品の中で詩人ジバゴの内面の純粋性を目のみによって驚く程見事に演じています。
 デビット・リーンはジバゴを演じるにあたってシャリフに次のように言いました。

「詩人としてのジバゴを表現したいが、劇中で詩を書いたり朗読することによってそれを表すわけにはいかない(これは演出過剰になるという意味です)。だから、ジバゴの詩人としての部分はカメラ(つまり映像)で表現していく。つまり、ジバゴの目から見た世界をカメラで映すわけだ。 君は辛いだろうが、何もせずに只風景を見ていて欲しい」

俳優にとってこれは最も辛い要求の一つだといって良いでしょう。 演出は「何もするな」ですから。この辛い要求にシャリフは見事に応えてみせます。

ここで疑問が一つあります。果して、シャリフは100%全く何もせずにカメラの前に立ったのでしょうか?

答えはNOです。
本当にただ風景を見ているだけならば素の状態のオマー・シャリフになってしまいます。
では、シャリフはデビッド・リーンの要求に応えながらどんな演技をしたのでしょうか。

シャリフは「ジバゴという存在として現場に立ち、何もせずにジバゴとして感じるままに風景をただ見続けていた」というのが答えです。つまり、詩人に見えるように何かしようとする無駄な演技を シャリフは一切排して、ジバゴとして感じるままに風景を見続けていたという事ですね。

ある程度のキャリアがある俳優ならこれがいかに難しい事か良く分かると思います。
「ただ存在する」「ただ感じるままに見る」、これは俳優にとって非常に手応えが感じにくい演技です。それは、自分の演技に確信が持てず不安に陥り易いという事でもあります。

ここで、重要になってくるのが感じるイメージ力なのです。
分からない事を無理に考えて答えを出そうとする。そうすれば、パニック生み出して苦悩の中でただもがき続けて終わるという結果になります。また、強引に答えを出して理由づけすれば無駄に強調したクサイ芝居になって終わりです。

この「想像力」「感じる」という事は「役作り」と「実際の演技」に直結してくる事になります。