自然な流れの想像について

 「性格俳優には演じる事が分かっていない。だから、彼らは舞台での偽装やトリックを念入りに研究した挙げ句、グロテスクな演技をするのである」
 【バーナード・ショウ】

 ショウが言う性格俳優とは「役を外側から固める」ことによって作り、決まりきった型による演技を繰り返す俳優のことだ。衣装、メイクには凝るが自分の演技パターンに役をはめ込むしか能が無い。この手の俳優はまともな演出家にとって最も使いたく無いタイプであり、今の日本で最も多いタイプの俳優(プロ・アマ問わず)でもある。
 このタイプの俳優の特徴というのは何を演じても同じだということ。医者、警察官、教師、サラリーマン、といった違った職業の役柄を演じても変わって行くのは衣装だけ。内向的キゃラクター、外向的なキャラクターといった性格的な違い(極端な例えだが)については暗いか明るいかだけで対処しようとする。
 こうした状況を作り出した日本の演技指導者たちは猛省するべきだ。

 バーナード・ショウが言う「グロテスクな演技」になってしまう原因は幾つかある。その一つは自分の実体験に無い役柄を演じた時に間違った想像の仕方をしてしまうことだ。
 役作りにおける想像とは無理矢理で突飛なものでは無い。
 実体験からあまりにもかけ離れ過ぎた感情に実感を込めることなど出来るハズが無いのだ。そんな事をすれば「それらしく装っただけの臭いモノマネ芝居」が出来上がるだけだ。

 前回、私は思考にも自然な流れがあると書いた。
 自然な流れの思考(想像)とは自分の実体験を膨らませて行くという作業である。腹部を刃物で刺された痛みを知るのに、実際に腹部を刺してみる必要は無い。自分の体験した外傷の痛みを膨らまして行くことによって想像するのだ。この想像の流れは極端(腹を刺されるような)な演技に限ったことではない。

 時代劇を例に挙げてみよう。
 幕末の新撰組は京都で「壬生狼(みぶろう)」と呼ばれて恐れられたという史実がある。この史実を前提として書かれ演出される作品があったと仮定しよう。
 劇中で新撰組のことを「狼」「壬生狼」という言葉を使って忌み嫌うシーンをアナタが演じたとしよう。
 この時、「狼」という言葉を現代の感覚でとらえようとすれば作品の時代の匂いは台無しになってしまう。現代日本で生きる者にとって狼は「不吉」「恐れ」の対象ではないからだ。だが、江戸時代には日本狼はまだ多く生存していた。当時の人々にとって狼は共存出来る存在では無く、極めて危険で脅威的な動物だった。
 演出がリアリティを望むならアナタはこの事を前提にして「狼」という言葉を使わなければならない。
 ここで、スタニスラフスキーシステムを誤解している俳優は狼の生態を調べるといった不毛で無駄なことをよくやる。狼の生態を知ったところで実生活の中の「脅威感」と繋がるはずもない。
 こうした局面で最も重要な事は「狼の脅威」を現代の何に例えて想像するかだ。これが上手く出来た時に「想像の感情」と「実体験の感情」が繋がるのである。
 掴みが早い俳優というのは感覚的にこの作業を素早くやれる者のことだ。そして、この作業がどれだけやれるかが俳優としての幅の広さを決めるポイントの一つとなる。
 最近の日本のコスチュームプレイ(歴史劇)がリアリティを欠く最大の理由は俳優や演出家が、この「自然な流れの想像」が出来ないことだ。史実を調べ上げどれだけセットを再現したところで、中に入る人物が現代人のままでは茶番劇である。
 リアリティのある感情を表現する為に最も必要なことは俳優自身にとって素直で自然な感情を表すことだ。この事を前提として、俳優は体験外の感情を想像していくのである。
 これは俳優にだけ当てはまるものではなく、演出家、脚本家にも当然必要な思考法になる。

>>第13回 素直に演じるということ