素直に演じるということ

 「過ぎた演技は、未熟な芝居も同様だが、目の肥えていない輩には受けるかもしれぬ。だが、目のある人々には耐えられぬ」
 【ウィリアム・シェークスピア】

 初稽古に臨んだある女優に対して私は言った。
 「テキストから感じたままに台詞を読んでごらんなさい」
 その女優がテキストをどう感じているのか?
 初めて一緒に舞台を創る彼女が何を見せてくれるのか?
 という事に私は興味を持っていた。
 最初から俳優に演出をつける事ほど愚かなことは無い。テキストから予断無しに受け取った新鮮な感覚をベースにしながら役へと俳優を導いていく事こそ、最も自然な演技を生み出す近道だと私は思っている。
 私の指示にその女優は一瞬顔を引きつらせた後、意を決したように台詞を読み始めた。
 稽古が終わった後に彼女はこう言った。
 「先生はとても怖い方ですね」と。
 彼女は商業演劇を主な活動の場とし、幾度かの小劇場への出演経験を持ったキャリア15年の女優だった。この初稽古から本番に至るまでの間、彼女は大いに悩みもがいていく事になる。
 葛藤の原因は一つ。
 「素直に演じる」という事に対する「不慣れ」と「恐れ」だった。これまでの彼女のキャリアでは演じるという事は「役をいじくり付け足す事」によって成り立っていたのだ。だから「感じたままに読め」と言われた彼女は「素のままの自分」を見られるような怖さを私に抱いたのである。
 彼女は頭の悪い女優では無かったので、私の演出に応えようと懸命に頑張った。だが、長年培って来た条件反射的な演技感は、頭で理解した演出意図を肉体を使って表現することを頑に拒んだ。結局、私は役に対する当初のイメージに手を加え、彼女の演技感を活かした上で、出来る限り自然に見えるように演出プランに修正を加えることにした。この作業を行う時期を見極めることは演出家にとって重要な資質の一つだ。全ての俳優に対して無限の可能性を語りたいなら演出家ではなく、宗教家になるべきだろう。
 彼女はある程度の手応えを得て本番を乗り切ったが、当初の演出意図通りに演じれなかったことを悔いていた。当然である。私がやったのは破局を回避する防御的演出であり、彼女がやったのは防御的演技であったからだ。

 クラシックバレエの世界では「教師で全てが決まる」という説がある。それは俳優の世界でも当てはまる部分が大いにある。彼女に「いじくり付け足す演技」を教え、奨励してきた演技指導者に対して私は憤怒を禁じ得なかった。
 「いじくり付け足す事をしなければ演技ではない」と思い込んだ俳優はシェークスピアが言う「過ぎた演技」しか出来なくなる。そうなった俳優は役の心情をストレートに伝えるより、役をいじくる手応えを求めるようになるからだ。結果は大仰でクサい芝居が待っているだけだ。だが、現実には「何かしなければならない」という強迫観念が普通になってしまった(そうさせられたと言っても良い)俳優の何と多いことだろう。

 役を演じる為に無理に声を張り上げ、無理に身体を動かしまくる必要は全く無い。感じたままに素直に話し動くことから演技は始まるのだ。自然な演技とは素直に演じる事からしか始まらない。
 前回、私は想像について書いた。私の言う想像とは「義務としての想像」という意味ではない。感じるだけで分かるモノに対して、無理に想像を加えようとすることはテキストに対する冒とくなのである。

>>第14回 演出家を探すということ