人生経験と俳優の思考法

「答えCに至る公式はA+Bに限定されるものではない」
【キリノメソッドによる俳優の思考法より】

Dという人物がいると仮定しよう。
 Dのことをアナタは知らない。
 Dの心理(性格・気持ち)をアナタは知る必要がある。
 だが、Dと会話することは出来ない。
 アナタはDの言動を観察することにした。
 観察することによってDを知ろうとしたからである。

 日常生活の中で他人を知ろうとする行為と、テキスト(脚本)の中の人物を知ろうとする行為に大した違いは無い。違いがあるとすれば、テキストの人物は架空の存在であり、日常の中に現れる人物は実在するというだけのことだ。
 日常の中でもこちら側から一方的に観察する以外にその人物を知る方法が無いことはままある。会話して親しくなれば相手に対する情報量は増える。だが、これも情報量が増えたというだけのことで、相手を判断するという意味では「一方的に観察していた時」と「会って話した時」でも変わらない。
 「知る」とは「判断する」ということだ。
 相手から得た「情報」を「判断」して答えを出せなければ「知る」とは言えない。

では情報を判断する上で何が拠り所となるのだろうか?

答えの一つは人生経験である。
自分が経験したことを元に相手の心理を計るのだ。
画鋲を踏んで痛い思いをしたことがある人は、他人が画鋲を踏んで痛がっていれば、その気持ちを察することが出来るはずだ。俳優は自分の人生経験と役を繋げることによって、感じて、思考する。
これは間違いでは無いが、そこには大きな落し穴も存在する。
その落し穴とは「自分の経験に縛られる」ということだ。
どんな波瀾万丈な人生を送ったところで、人が一生のうちに体験出来ることなどたかが知れている。それを無視して、無理矢理に人生経験と役を結びつけようとすれば演技上の破綻というのは必ず生まれる。
この落し穴に陥り易い俳優というのはよくいる。
そうしたタイプの俳優は
「Cという答えをA+Bという公式によって導いた経験から、Cという答えはA+Bという公式によってしか導かれない」
というように自分の経験に縛られ思考を硬直させてしまっているのだ。こうした「悪い意味での経験固執主義」は役の把握の仕方に止まらず演技全般へと大きく影響する。
演出家から「遊んでくれ」と、言われてどうして良いか分からなくなる俳優というのは、この思考硬直傾向が強い者が多い。
これが酷くなると自分が最初に演技を教わった劇団・養成所の名前(日本中の誰もが知る有名な所だったりする)を上げて、「私はそういうものだと教わりました」と、言ってみたりするから救いようが無い。こうした俳優は「私は自分の意見が無いお馬鹿さんです」と自ら言っているようなものだからだ。

自分の人生経験(自分が体験した感情)と役の心理を結びつけることは重要だが、体験外の心理を持った役を演じなければならない時というのが必ずある。
 その時に必要なことは自分の経験則で役の心理について感じてみて(考えるのでは無い、感じるのだ)、感じきれない部分については想像していくことだ。
 この際に大事なことは
 「答えCに至る公式はA+Bに限定されるものではない」
 という発想で、役の心理を無理に自分の経験に押しはめようとしないことだ。
 特に役の心理を謎解きのようにして強引に考えて行くのは避けるべきだ。これが始まると俳優は「愚鈍で不毛な哲学ゲーム」の世界へと誘われて行く事になる。
 感じる事だけで全ての役を演じきることは難しい。
 上手く演じるには思考も必要だ。
 だが、感じる事と同じように思考にも自然な流れというものが存在する。自然とは無理が無いから自然と言うのである。

>>第12回 自然な流れの想像について