シェークスピアに日本語台詞は殺される?

「イギリス演劇界には我々(米国の演劇人)の及ばない言語感覚とシェークスピアへの造詣が備わっているのだ。今日でも、イギリス の俳優や演出家は自分たちの芸術生命を懸けないと、シェークスビ アがハムレットの口を借りて演技者に与えた的確な支持を黙殺する ことは出来ない」【マーロン・ブランド】

ブランドという男はスキャンダラスなプライベートと奇行(一般 人にとっては)とは裏腹に、こと芝居については実に的確で思慮深 い言葉を残している。

日本では年間を通して膨大な回数のシェークスピア劇が上演される。しかも、日本語でである。
英国の歴史も風俗史も知らず、それどころか英国式の英語さえまともに喋る事ができない俳優達が悦に入ってシェークスピアを論じ、演じ続けている。

シェークスピアを日本語で上演するということは、歌舞伎を英語で上演するという事と全く変わらないことを彼らは分からないのだろうか。
シェークスピアの良さについてプロ・アマ問わず、多くの俳優達は、「人間心理の奥底に潜むものを繊細に描いている。あれほど見事に人間を描いているのはシェークスピアだけだ」いうような、とてもユニークなことを言う。

おそらく、彼らはシェークスピア以外の物語をそのつたない人生の中で殆ど知ること無く生きて来たのだろう。
シェークスピアが極めて優れたストーリーテーラーであったことは疑いようの無い事実であるが、人間心理の奥や、その時々の社会と人間を見事に描いた作家というのは他にも沢山居る。

シェークスピアの真の魅力とは英国式の英語による英詩としての台詞の音韻なのである。だから、即物的な意味としてそれを翻訳することは可能であっても、その音韻の趣きを翻訳する事は不可能である。それを知る為には英国式の英語を理解する以外に方法は無い。

そうした意味において「マクベス」を戦国時代の日本に置き換え脚色し、日本語劇として完成させた黒澤明の映画「蜘蛛巣城」はシェークスピア劇の発展形として考えた場合、日本人による唯一の成功例と言って良い。黒澤明の成功はシェークスピアの創ったストーリーの大枠のみを取り出し、日本人と日本語に見事に融合させたことである。

この作業を行わずして翻訳劇としてのシェークスピアに溺れ続ける限り、日本の脚本(戯曲・シナリオ)における日本語の台詞、日本人俳優の言語感覚というものが発展する可能性というのは一 部の例外的事例を除けばまず無いといって良い。

演出家(舞台、映画)、脚本家、俳優というものは言葉の遣い手なのである。このことが忘れられて久しいのは実に嘆かわしい限りだ。
日本の文学・演劇人によるシェークスピア信仰が始まって100年を越えるが、そろそろ気づくべきである。
このままでは、やがて翻訳シェークスピア劇の権威によって日本語台詞の音韻を活かす感覚というのは殺されてしまうだろう。この愚かな状況を見たらあの世のシェークスピアは何と言うだろうか。
言語感覚に優れた彼は現代英語の俗語を素早く感じ取り、アメリカ人を装ってラップ調でこう言うだろう。

「イエロー、マーザー、ファッキン、アクター」

>>第04回 映画・TVで軽んじられる呼吸法