無能な演出家と見捨てられた俳優

「役の多くは俳優が、創作するものなのだ。ことに映画はそうである。物語がうまく書けていなければ、演じる者がキャラクターに真実味を与えなければならない。しかし[欲望という名の電車]のような良い台本をつかんだ場合、たいして苦労は無いのだ。よけいな手を加えずに、登場人物をひとり歩きさせればいい。(中略)テネシー・ウィリアムズの芝居に即興は不要だ。俳優にとって最良の言葉が用意してあるからである」【マーロン・ブランド】

このブランドの言葉は役に付いた俳優がしなければならないことを雄弁に語っている。
演出家(舞台・映画共に)には二つのタイプがいる。作品と登場人物に(すなわち役)対して大雑把なイメージしか持つ事が出来ない者と、作品と登場人物に対して明確で細かなイメージを持つ事が出来る者である。

残念ながら多くの演出家は前者に属する。という事は多くの場合において、俳優達は役を演ずるにあたり 「何をどうすれば役を上手く演じる事が出来るのか?」 「自分のキャラクター(内面・外面共に)と役をどう結びつければリアリティのある演技が出来るのか?」 という最も重要な回答を演出家に対して期待するのはほぼ不可能だと思って良い。

当然の事ながら大雑把なイメージしか抱けない演出家が俳優を見事に動かすノウハウなど持ち得ないからである。
これは無能な演出家によって俳優たちが見捨てられているという事だ。
この現実を認識した上で俳優たちは役に取り組み、演技の向上を図って行かなければならない。これは極めて大変なことだ。度胸があり、ある程度勘が良い者であれば、存在感とインパクトをそれなりに出す事はさほど難しいことでは無い。ただし、「それなりに」である。最初は良いだろうが、幾つか役を重ねると何を演じても同じという事に陥る事になる。

これは現在のショウビジネス(映画・舞台)が抱えている極めて重大な難問である。
過日、某テレビ局で「邦画バブル」などという極めて軽薄な題材を扱ったドキュメンタリーが深夜に流れた。数字の上では近年に無く邦画の成績は良いが、現実には広告屋が企画した安易な大作が数字を延ばしているだけで、Vシネマを含めた製作本数は減っている。
しかも、Vシネの作品ジャンルは少しばかりのヤクザ物を除いてはエロばかりしか無い。あとはかつてのATG作品より更に過酷な製作環境の独立系映画が少し増えただけである。

この状況下では俳優の仕事(アマチュア含まず)は益々減って行き、たまに機会を得たところで演技術を磨くことも苦しい。
日本のショウビジネスが斜陽下し始めて40年になるが、恐らく俳優にとって今から来る時代より厳しい時代は無かったのではないか、と思える。

好きな芝居をやり、それで生活も賄うのであれば、俳優達は根本的に様々なことを考え直す必要があるだろう。
ある程度売れたとしても、人気が下降線になった時にいかがわしいベンチャー企業のパーティや、裏社会の住人のパーティーでの人寄せパンダとしてご祝儀で食べていくというのでは、あまりにも悲しく辛いではないか・・・。

>>第02回 俳優が出来の悪い脚本を演じる為に