メソッド演技という名の嘘

「演技を教える事は出来ない」【ステラ・アドラー】

スタニスラフスキーに師事し、彼から学んだ演技術と俳優訓練法をアメリカに持ち込んだステラ・アドラー。彼女によって広め始められたこの技術は、やがてメソッド演技という名でアメリカから世界中に広まっていく。

そのステラ・アドラーが興味深い言葉を残している。
「演技を教える事は出来ない」
ステラ・アドラーに師事し20世紀屈指の名優となったマーロン・ブランドはこう言っている。
「私はメソッド演技という言葉を使うのをためらわれる。メソッド演技という言葉はリー・ストラスバーグによって通俗化され、汚され、誤用されてきた」

ハンフリー・ボガートは言った。
「奴ら(メソッド俳優)ときたら、やたらと動き回り、口から唾を吐き散らし、落ち着きの無い演技が得意だ」
※ボガートはプランドの演技については高く評価していた。ブランドが彼の言うところのメソッド俳優的な演技者ではなかったからだ。

この三人の発言は興味深い一つの事実を言い表している。
リー・ストラスバーグに功績があったのは事実であるが、「メソッド演技」という名の方法論がその後歪んだこと、 素人騙しの錬金術となっていった事は厳然たる事実だ。(ストラスバーグの責任かどうかは別にして、彼がそれを利用したのは事実だと思う)

日本でストレートプレイを志す者の多く(プロアマ問わず)はメソッドという言葉に桁外れに弱い。「メソッド演技」とつくだけでクリスチャンにとってのバチカンのようなブランドイメージを想像してしまうからだろう。

このお陰でアクターズスタジオ出身、メソッド演技、という言葉を使いさえすれば思いのままの詐欺商法を行う事が出来る土壌が日本に育ってしまった。

そもそも、メソッドとは「体系化された方法」という意味である。だから、もしメソッドという言葉を使うとすれば「○○○メソッドによる演技」というのが正しいはずた。

ところが、発案者不明(スタニスラフスキーを匂わすという姑息さはあるが) のメソッドは言葉として一人歩きし、沢山の俳優達に対して馬鹿馬鹿しいほど無駄な思考を奨励している。

その最も代表的なものは「状況を考えろ」「役の生い立ちまで考えろ」という、まともな脚本家が聞いたら気が狂っているのではないか? と思う指示だ。
「状況を考えろ」とは極端に言えば部屋の内装からテーブルクロスの色まで想像しろという意味。
「役の生い立ち」とは脚本の中に描かれている物語に登場する以前の役の人生についてだ。

この無慈悲、残酷な指示によって演技をマニュアル化されてしまい、屁理屈という財産以外は何も持てなくなってしまった哀れな俳優達(被害者と言っても良い)の数というのは想像もつかない。

一見、まともに見えるこの指示をそのまま受け取ってしまうと大変な事になる。まず、自分の役を感覚で掴みとる事が出来なくなり、それが強引であっても裏付けさえあれば良い演技が出来るという妄想にとらわれてしまうからだ。

そもそも、裏付けなどというものは感じた事の延長線上にあるものであり、頭から考えるようなものでは無い。考えて出て来た裏付けというような物は大体が「自分の頭の中で作られた強引な想像物」であり、ワザとらしい偽物の演技をする上では役立つものの、自然でリアリティある演技をする為には大きな邪魔となってしまう。

何故、ステラ・アドラーが「演技は教えられない」といったのか?
その意味は、演技術をメソッドとしたところで、それは演技の基本構造について分かり易くしたものにしか過ぎないからだ。俳優個人が感覚として、それを自分の演技にどう繋げられるか?という問題は全く別なのである。誰もが上手くなる演技法・どんな役柄でも演じられる演技法(宣伝文句にはなり易い)などという物は存在しない。

ここで一つの良い参考例を上げておく。

歌舞伎の13代目片岡仁左衛門(1903~1994)が現代劇のストレートプレイを演じたのは76歳の時。役柄は大商社の社主。彼はここで、初めてのストレートプレイとは思えない自然でリアリティある演技を披露し、観客に強烈な印象を残す。最近の歌舞伎役者のストレートプレイからは想像もつかない名演である。

何故、歌舞伎一筋に生きてきた彼がこのような演技を披露する事が出来たのか?彼はスタニスラフスキーに師事したわけでは当然ない。
ここに演技の本質とは何か?というヒントがある。

一つ言えるのは感覚を無視した、いかがわしいメソッドは「俳優の可能性を殺す」ということである。

>>第09回 緊張・勇気・リラックス